対談

石油産業とともに150年危機を乗り越え栄える企業の条件

上野興産社長 × 投資育成社長

産業や市民生活に欠くことのできない石油製品やケミカル製品などの輸送・貯蔵・販売を手掛けてきた上野興産。150年にわたる歴史の中では、第二次世界大戦や二度の石油危機など、数多くの危機に直面してきた。それを乗り越え、繁栄を続けてきた秘訣は何か、脱石油が進むいまどんな未来像を描いているのか、語り合った。

創意工夫と誠意で顧客の信頼を勝ち得る

望月
私共の投資先は中堅中小企業を中心に1000社を超えており、業歴100年以上という企業も少なくありません。その中でも上野グループは今年創業150周年と、とりわけ長い歴史をお持ちです。その間、さまざまな出来事に遭遇したことと思いますが、数々の難局をいかに乗り越え、会社を維持、発展させてきたのかお聞きしたいと思い、この場を設けさせていただきました。よろしくお願いいたします。

上野
こちらこそ、よろしくお願いいたします。

望月
それではさっそく、創業の経緯から教えていただけますか。

上野
上野グループの始まりは、1869年(明治2年)、今の横浜市中区吉田町都橋に開業した旅館兼回船問屋「丸井屋」です。松山藩に仕える下級武士だった曾祖父の金次郎は、幕末、ペリー来航に伴う神奈川沿岸一帯の警護に当たるため横浜に滞在していました。文明開化の只中にある街の雰囲気に魅了されたのでしょう。明治維新後、侍という身分を失い、何か商売を始めようと考えたとき、横浜へ戻る決心をしたのだといいます。当時横浜は、海外の人や商売人などが集まり人口が爆発的に増えていました。その一方で、人口の増加に食料の供給が追い付いていなかったのです。金次郎は、その状況を見て、周辺から食料を輸送することを思いつきました。

最初は10トンほどの小さな帆掛け船だったそうです。千葉方面で米をはじめとした食料を積み込んで、東京湾を渡り、川をさかのぼって横浜の中心街まで届けたといいます。

また、食料だけでなく、人も運んだため、大岡川の川沿いに丸井屋を建てました。旅館はかなり繁盛していたのですが、1899年に起こった大火で全焼し、運送業に集中するようにしたと聞いています。

望月
昭和シェル石油の前身であるライジングサン社と取引が始まるのは、その後ですか。

上野
はい、翌1900年のことです。ライジングサン社は、ロイヤル・ダッチ・シェルグループである英国サミュエル商会の石油部門が独立した会社で、インドネシアなどで積んだ灯油やろうそくを日本向けに販売していました。当社は、その本船沖荷役を受注することになったのです。横浜まで来た外航船から荷を降ろして港へ搬送する仕事です。

社長は二代目の亀太郎に替わっていました。当時、横浜の運送事業者で英語を話せたのは亀太郎ぐらいのものだったといいますから、そのあたりもライジングサン社との取引が始まったことと関係しているのかもしれません。

望月
ライジングサン社との付き合いが深くなっていったきっかけは何だったのでしょうか。

上野
創意工夫と誠意です。当時、横浜港は水深が浅くて外航船が港に横付けできず、港から離れた場所で外航船から艀(はしけ)に荷を積みかえなければなりませんでした。その際、畚(もっこ)を使っていました。

望月
藁のむしろの四隅に綱がついた運搬用の道具ですね。

上野
はい。しかし、灯油は決して頑丈とはいえないブリキ缶に入っていたため、畚に積んで降ろすとき船体にぶつかって破損することが少なくなかったのです。そこで亀太郎は畚の中に板を敷いて直接船体に当たらないように工夫しました。また、要所に熟練者を配置して指導にあたらせたともいいます。こういった工夫と努力によって、灯油缶の破損率が大幅に減少したといいます。

ライジングサン社もこの成果を高く評価してくださり、横浜港から東京への搬送用にと、丈夫なアラブ馬を貸与してくれました。それが、陸上輸送事業の始まりでした。

長期にわたる関係構築は 「アームズ・レングス」が秘訣

望月
上野グループの120年間に及ぶ石油事業は、ライジングサン社、昭和シェル石油と共にあったと思いますが、第二次世界大戦では敵味方に分かれています。それでも関係が続いたのは、なぜでしょうか。

上野孝社長

うえの・たかし 上野興産株式会社 代表取締役会長。
1944年生まれ。
慶応義塾大学経済学部卒。2015年11月から現職。
日本商工会議所副会頭、横浜商工会議所会頭も務める。

上野
本当にありがたいことに、終戦後、ライジングサン社のほうから私共を探し出して、また一緒にやろうと声をかけてくれたのです。

ライジングサン社が日本において営業停止となったのは、1940年頃だったと思います。それまでの40年間で強い信頼関係が築けていましたし、私共が両社の関係をとても大切に考えていることが伝わっていたのだとも思います。日本から撤退する前、帰国船に乗るまでの数週間ほど、ライジングサン社の社員は収容施設に入れられていたのですが、亀太郎は毎日のように訪ねて無聊(ぶりょう)を慰めたそうです。

実は、終戦後、最初に日本へ戻ってきたのは米国系のモービル石油で、当社もそちらの仕事を請け負っていました。それなのに、ライジングサン社(1948年10月にシェル石油へ商号変更)は私共を探し出してくれただけでなく、当社を日本におけるバンカー(船舶燃料油)供給の総代理店にしたいとまで言ってくれたのです。そこまで考えてくれるのに中途半端なことをしてはいけないと、モービル石油の仕事はすべて返上してシェル石油の仕事に全力を注ぎたいと、モービルの社長に直接伝えました。これは後から知ったのですが、モービルの社長は自社の仕事を蹴った会社であるにもかかわらず、わざわざシェル石油の社長へ「シェルは本当に良い輸送会社を持っている。大事にしてやってくれ」と手紙を書いてくれたそうです。

望月
それはまた、粋ですね。

上野
本当に、私共はお客さまに恵まれていると思っています。第2次オイルショックのときには、シェル石油の会長と社長お二人から直接、「同じ船に乗ったつもりで、この危機を乗り越えましょう」と言っていただきました。日本経済が混乱して、今後どうなるかもわからない状況下でしたから、とても心強かったことを覚えています。

望月
第2次オイルショックはイラン革命によってイランでの石油生産がストップしたことが原因ですよね。シェル石油はイランとの関係も深かったでしょうから、自社に及ぶ影響も大きかったはずです。だから、御社のことを信頼のおけるパートナーだと頼りに思い、相当な決意を込めて、そうおっしゃったのではないでしょうか。

上野
そうかもしれません。シェル石油も両社の関係を「アームズ・レングス(arm’s length)」だとよく言っていました。日本語だと、何と表現すればいいんでしょうね。

望月
自立した大人の会社同士といったニュアンスでしょうか。

上野
ああ、なるほど。シェル石油との長いお付き合いの中で、資本を入れていただいて、人も派遣していただいて、親子の関係で仕事をしたいと何度かお願いしたことがあります。でも、そのたびに、アームズ・レングスだからこそ、これほど長い間、共に仕事のできる間柄になれたのだと断られました。資本や人を入れたら、お互いに甘えが出てしまうからと。

望月
アームズ・レングスだからこそ、継続できる信頼関係ですか――。何かうなずけるものがありますね。

石油産業の次を見据える「CROSSING」

望月晴文社長

望月
世界は二度の石油危機を経て、安全保障の観点からも、経済的なボラティリティを安定化するためにも、石油依存度を下げる方向へと向かっています。そのような状況下において、石油事業をメーンビジネスとしている御社はどのような経営戦略を描いているのでしょうか。

上野
おっしゃるとおり、当社の石油依存度は7割ほどに達しています。しかし、一番大きな元売りであるJXTGエネルギー社は経営計画の中で、2040年に石油のマーケットは半減するとの予測を出しています。シェルもロンドンの石油依存度を半分にすると。日本のみならず、世界においても石油への依存度を下げていくというのが潮流です。

この流れを踏まえて、既存事業を見直し、新しい事業を開拓していくことが大切だと考え、さまざまな挑戦をし始めているところです。

望月
具体的には、どのようなことに着手しているのでしょうか?

上野
ある記者がインタビュー中に口にした「十字路」という言葉にヒントを得て、「CROSSING」という単語に集約しています。

Cは、既存事業であるケミカル(chemical)、つまり石油化学です。この分野は輸送事業だけでなく、子会社を立ち上げてトレーディング事業も手掛けています。また、シェルが日本から撤退するにあたり、化学品販売を行っているシェルケミカルズジャパン社を買わせていただき、グループに新たな価値が加わりました。

Rはリニューアブルエナジー(renewableenergy)です。自然エネルギー分野では、すでに太陽光発電関連の事業を日本やフィリピンで手掛けており、まだまだ伸ばしていける余地があると考えています。

Oはオーバーシーズ(overseas)、海外における事業ですね。たとえば、40年来、航空燃料輸送事業を手掛けていて、シンガポールのチャンギ空港では航空燃料の輸送のほとんどを私共が行っています。

望月
石油依存度を下げるといっても、すぐに代替エネルギーへ置き換えられるものばかりではありませんし、新興国が経済成長を実現し、文明度を高めていくには、まだまだ石油に頼る部分は大きいと思います。航空燃料もそういった代替のききにくいエネルギーの一つですから、伸びしろが期待できそうですね。

上野社長と望月社長

上野
また、長年、危険物を扱ってきたノウハウも、活用の幅の広い財産だと考えています。

たとえば、一昨年、安全に危険物を運ぶノウハウを学べるトラックドライバー向けの学校をフィリピンにつくりました。まだ効果測定の途中ではありますが、すでに成果が出つつあります。こういった安全技術教育をS=セーフティー(safety)と位置づけ、東南アジア圏へ広げていく予定です。

もう一つのS=ストレージ(storage)は危険物に関するノウハウを倉庫運営に生かすというものです。こちらは専門会社を設立して、潤滑油を扱う倉庫を建設しているところです。

望月
Iというのは、ITですか。

上野
はい。物流業界は人手不足が深刻で、IT利活用による効率化が急務になっています。そのため、IoTやビッグデータを活用して船員の負担を軽減できる先進船舶の研究に取り組み始めています。

望月
先進船舶というのは、少人数で運航できる自動化された船舶ということですか?

上野
はい。ただし、現状では法律で船舶運航にあたって必要な船員の数が決められているので、すぐに実現できるものではありません。しかし、すでに飛行機は自動化が進んでいますし、船舶でも取り組む価値はあると判断しました。N=ニューエナジー(new energy)は緒(しょ)にもついていませんが、水素など新しいエネルギーを扱っていくため、ある大学と共同研究を始めています。最後のGはガスです。特に横浜港におけるLNG(液化天然ガス)の供給体制を構築するため、LNG船なども含めて、商社とプロジェクトを進めているところです。

望月
お話を聞く限り、長年既存事業によって培ったビジネス領域やノウハウを横展開しながら新しい事業を開発していこうというのが、基本的な考え方のようですね。

上野
これまでに数多くの新規事業に挑戦し、何度も失敗を経験してきました。そこから得た教訓というのが、既存事業の隣にあるビジネス、今自分たちが芽を持っているビジネスに、自分たちのあらゆるエネルギーをつぎ込んで開拓していくことを大切にしています。

「別是一壺天(べつにこれいっこのてん)」に流れる上野グループのDNA

望月
創業150年という会社のトップとしてグループをけん引する立場にいらっしゃる上野さんは、100年以上継続する企業の条件は何だと思いますか。

上野
とても難しい質問ですね……。答えになっているかわかりませんが、当社は社是である「別是一壺天」という考えを大切にしてきました。もともとは京都、紫野の大徳寺のお坊さんが祖父の家に泊まったとき、家庭の在り様を見て、くださった言葉だそうです。『後漢書』にある言葉で元の意味は少し違うようですが、「外の世界が如何に混濁したものであっても、ひとつの清浄な壺の中にあるように、家族同士が敬い合い助け合っている家庭をつくっているので、それを大切にしなさい」と言って、この言葉をくださったようです。祖父は、これを家庭だけでなく会社の中に、社会に、そして日本全体、さらには世界に広げていこうという思いを込めて、社是としました。

望月
企業が長く存続していくためには、事業成長や事業戦略も大切ですが、何より企業を構成している社員たちの清浄さや調和が秘訣だということでしょう。数多くの企業を見てきた経験からも、納得できるところは多いですね。

シェル石油が御社を子会社化しようとしなかったのも、別是一壺天の考えが浸透している会社だったからなのではないでしょうか。お互い自立したパートナーとして付き合うより、買収してしまったほうが自分たちの思うように動かせるから楽なはずです。上野グループのほうから持ち掛けていた話ですから、断る理由はないようにも思えます。しかし、それをしてしまうと、御社の良さを損なってしまう。そう思わせるものが上野グループにあるからこそ、アームズ・レングスの関係でいようと言ったのかもしれませんね。

上野
そう言っていただけると嬉しいですね。ただ、今の若い社員たちに別是一壺天といっても理解してもらうのは難しいのが現実です。そのため、ビジョン、ミッションや行動憲章をつくり、その中に別是一壺天のエッセンスを入れるなど、若い世代にも当社のDNAを受け継いでもらう工夫も行っています。

小椋佳さんにコーポレートソング『一壺の天』を作詞作曲してもらったのですが、それも社是に込められた想いをかみ砕いて社員に理解してもらうためのものです。

望月
なるほど。社是といった企業の根底をなす考えというものは、あるだけでは不十分で、世代を超えて代々受け継いでいくために、時代に合わせた方法で工夫することが大切だということですね。

本日は、貴重なお話をありがとうございました。

上野興産のあゆみ

 

1869年(明治2年) 上野金次郎、横浜で回船問屋「丸井屋」を創業
1900年(明治33年) 昭和シェル石油の前身ライジングサン石油の石油輸送開始
1909年(明治42年) タンク馬車で灯油の輸送を開始
1918年(大正7年) 合資会社「上野回漕店」に改組
1923年(大正12年) 関東大震災の発生。海岸通りにあった上野回漕店の事務所と倉庫、吉田町の旅館丸井屋は倒壊
1926年(昭和元年) 合名会社「上野運輸商会」に改組
1948年(昭和23年) シェル石油の製品の海上輸送を再開、また、同社から外国船バンカーのソウルエージェントを委託
1955年(昭和30年) 戦後初の内航船「第一赤貝丸」(黒油1850キロリットル積)建造
1957年(昭和32年) 日本最大の内航船「黒貝丸」(黒油4000キロリットル積)建造
1959年(昭和34年) 初のケミカル専用船「第一日乃出丸」建造
1961年(昭和36年) 石油販売部門として「旭日通産」設立
1962年(昭和37年) ケミカル部門を分離し、「上野ケミカル運輸」設立
1965年(昭和40年) 1号店給油所を鎌倉市に開業
1971年(昭和46年) 「伊勢湾防災」設立、海上防災業務を開始
1975年(昭和50年) 株式会社上野運輸商会に改組
1977年(昭和52年) シンガポールに「オクサリス・シッピング」設立
1981年(昭和56年) 陸上輸送部門を分離し、「上野輸送」を設立
1991年(平成3年) 上野マリン・サービス、サウジアラビア緊急援助隊として油濁防除作業に従事
1997年(平成9年) 国内初の6000キロリットル積タンカー「そうび丸」竣工
1998年(平成10年) 上野運輸商会と上野ケミカル運輸を統合し、「上野トランステック」を設立
昭和シェル石油、平和汽船との合弁会社「ジャパンオイルネットワーク」を設立
「オクサリス・ホンコン」設立。本国国際新空港向けの航空燃料輸送を開始
1999年(平成11年) 横浜市・環状二号線沿いの3,400㎡(1053坪)という広大な敷地に日本初の乗用車専門大型ガソリンスタンド「横浜ベース」開業
2000年(平成12年) 上野トランステック、輸送基盤強化のため平和汽船(株)の営業権を取得
2005年(平成17年) 上野トランステック、大光船舶(株)の株式の65%を日触物流(株)より取得
2006年(平成18年) 上野トランステック、フィリピンのTransnational Diversified Corp.と「Transnational Uyeno Maritime Inc. (TUMI)」を設立
2011年(平成23年) Transnational Uyeno Solar Corporationが上野グループ最初のソーラー施設をフィリピンで建設
2012年(平成24年) 上野グリーンソリューションズ(株)営業開始
2013年(平成25年) エヌ・シー・ユー物流(株)の全株式取得
2017年(平成29年) TRANSNATIONAL UYENO SAFETY ACADEMY INC. 設立
2018年(平成30年) シェルケミカルズジャパン(株)の全株式取得

機関誌そだとう200号記事から転載

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