受け継ぐ者たち。承継までの道のり

“千尋の谷”に落とされて、得た自信と力

~実務は自ら考えて学び、スピリッツはじっくりと授かる~

CASE②株式会社アイメックス

 

プリンターや複写機、PP機で使用するトナーは、帯電性のあるプラスチック粒子に磁性粉・顔料・帯電制御材・WAXなどの機能材料を分散させた、ミクロンサイズの印刷材料だ。そのグローバル市場において、日本は大きな存在感を示し、生産量上位には、わが国の大企業が顔をそろえる。そこに肩を並べるのがアイメックスだ。

「私たちは、技術開発型ベンチャー企業です。1982年の創業以来、多種多様なカートリッジへ汎用的に対応する、高品質で低コストのトナーを開発してきました。コア・テクノロジーとして、トナーの主原料である樹脂の共同開発からトナーの帯電制御技術、トナーに含有される着色剤・WAXなどの分散技術、さらにミクロン単位の粒子を均一に丸くする表面処理技術など、高度な独自技術を有しています」

こう自信を示すのは、同社の北岡雄一郎社長だ。2022年にトップへ就任した2代目である。

 

(左)4色(シアン・マゼンタ・イエロー・ブラック)トナーのイメージ画像。
(中央)使用済みのトナーカートリッジを分解・清掃し、アイメックスのトナーを充填することで
新たな命を吹き込むリサイクルカートリッジ

(右)アイメックスが開発・製造・販売しているデジタル捺染プリンターは、特殊トナーを搭載し、
Tシャツやマグカップなどへのプリントを可能としている

 

北岡雄一郎社長

株式会社アイメックス
主な事業内容:
レーザープリンター・複写機・PP機用トナー、リサイクルトナーカートリッジ・関連部材、自社デジタル捺染プリンターの開発・製造・販売など
本社所在地:
神奈川県平塚市
創業:
1982年
従業員数:
110人

アイメックスを創業したのは同氏の父である北岡明氏。もともとは大手化学メーカーで営業課長としてトナーを扱っていた。品質を何よりも重視し、文系出身ながら開発や技術、生産部門にも足しげく通って、常に現場と意見を交わしていたという。
「トナーの製造は原料を練り込む混練と、それを粉々にする粉砕の大きく2つの工程に分かれます。父の勤めていた会社では混練を外注していたそうですが、父には『混練こそがトナーの品質を大きく左右する重要なポイントだ』という持論があり、混練も内製すべきだと経営層に訴えていました。ただ、費用対効果の観点から実現されなかったのです」

そこで明氏は、大企業を飛び出して独立を決意する。そして1982年、アイメックスを立ち上げたのだ。

とはいえ創業当初は資金が足りず、ファブレスメーカーとして自社では処方設計のみを行い、混練から粉砕までは外注せざるを得なかった。やがて実績を積み重ね、岡山に工場を建設して自社生産をスタートしたのが創業6年目。念願の混練機、それも通常のトナー生産で使うタイプとは異なる、特殊な機械を導入した。
「今も稼働していますが、タイヤなど強度の高いものを練るための混練機です。通常は熱をかけて材料を溶かし、それをスクリューの中で混ぜるのですが、当社の混練機は熱をかけずに、粉状の材料をそのままバケットの中に入れて、高圧の摩擦熱で溶かしていきます。より高品質で粘度の高いトナーが生産でき、品質もばらつきがありません」

自社で品質の高いトナーを生産できるようになった一方で、国内のトナー市場はプリンターメーカーの純正品が主流で、新興企業が食い込むのは至難の業だった。そのためアイメックスは、使用済みのトナーカートリッジを回収して汎用トナーを充填するリサイクルトナーに着目。しかし、近年ではプリンターメーカーもリサイクル・リユースに取り組むが、当時の日本でリサイクルトナー市場はまだ未成熟であった。そこで目を向けたのが、海外市場である。なかでも世界最大のアメリカ市場を開拓すべく、1993年にニュージャージー州で現地法人を設立した。

これが奏功し、品質の高さとコストパフォーマンスに優れたアイメックスのトナーは高く評価され、販売量は右肩上がりに伸びたという。岡山に第二、第三と新工場を相次ぎ稼働させるとともに、2002年にはアメリカ工場を立ち上げた。現在も売上比率の約8割を海外が占める。

 

(左)岡山工場のトナー製造ライン。
(右上)できあがった6~7μmのトナーは、SEM(走査型電子顕微鏡)で
表面にナノサイズの外添剤が均一に付着できているかを観察する。
(右下)さらにトナーをダイアモンドカッターで輪切りにし、
TEM(透過型電子顕微鏡)で内部の原料分散状態も観察している

 

大きな自信につながった困難なミッションの成功

北岡社長はアメリカ工場設立と同年の2002年、大学を卒業して、新卒でアイメックスに入った。幼少時から父に連れられ、会社によく訪れていたこともあり、漠然と将来は後を継ぐのだろうと感じていたと語る。
「会社を継ぐ意思もあり、自然と入社を決めました。ただ、私も文系です。トナーについては、鉛筆の粉を削ったようなものだろう程度しか考えていませんでした。入社して初めて、トナーというものの難しさと奥深さを知ったのです」

1年目は岡山の基幹工場に配属され、トナーの製造や開発技術などの基礎を学んだ。そして早くも2年目に、アメリカ赴任が決まる。前年からアメリカ工場が稼働していたものの、経営状況が芳しくなく、先代から立て直しを命ぜられたのだ。

しかし、ここで大きな試練が訪れる。赴任して1カ月後、会計・経理・財務を担当していた現地の副社長が退職してしまい、その後任も務めなければならなくなった。その上、経理の実務を担っていた米国人社員が結婚を機に引っ越すこととなり、その後任の面接・採用・教育も急務となる。つたない英語で、会計の知識もない。そこで、現地の夜間大学に通うことにした。
「朝は誰よりも早く出社し、定時の17時に退社して、大学に通いました。かなりハードな日々でしたが、英語も会計も、学んだことをすぐ実践できたので、身につきやすかったです」

他方、現地法人の立て直しにおいても、キャッシュフロー悪化の原因となっていた過剰在庫の適正化に着手し、生産計画と在庫を一元管理するシステムを構築。営業面でも、中断していた大企業との取引を復活させるなど、着実に実績を上げた。

3年間の奮闘で経営を軌道に乗せ、2006年に帰国。取締役として日本で営業企画、管理部門、海外営業など幅広い業務を担当した。

ところが、それからさらに3年後の2009年、アメリカの現地法人は再び経営が悪化しており、またも北岡社長が出向くことになる。今度は現地法人の社長として赴任した。
「経営陣は、とりあえず止血だけしてほしいという低い期待値でしたが、私には驚くほどの黒字を出してやる、という強い気持ちがありました」

徹底したのは、主に4つ。売上回復、販売収益率の改善、工場の赤字最小化、販売費および一般管理費の削減だ。「非常にシンプルかつセオリー通りのことを愚直にやり続けただけ」と、北岡社長は微笑む。

その結果、業績は順調に回復し、黒字転換に成功した。この2度のアメリカ赴任における経験や実績が、大きな自信につながったという。
「アメリカの現地法人は当社最大の子会社で、なおかつ世界最大の市場です。そこの立て直しを任されるという、もっとも困難なミッションで結果を出したことが、経営者として私のベースになっています」

 

(左)アメリカの現地法人がオレゴン州に移転した際に開催した、GrandOpening Ceremonyにおける鏡開きの様子
(中央)移転後に、北岡社長がアメリカの現地社員と撮影したオフショット
(右)アイメックスの「40周年感謝の集い」には海外現地法人幹部社員が一堂に会し、
イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、日本と計5カ国の社員が親睦を深めた

市場の変化に対応し、Ⅴ字回復を果たす

2014年に帰国し、常務営業本部長に就任。ときを同じくして、グローバル市場で中国企業など後発メーカーの台頭が著しく、かつてないほど競争が激化していた。そこで、本社での改革へと本格的に乗り出す。
「中国企業は自国政府の支援を受けて、信じられないほどの低価格で攻勢をかけてきました。まともに勝負はできないと判断し、そのレッドオーシャンから抜け出してブルーオーシャンを目指すことにしたのです」

しかし、同社の原点には創業者のものづくりに対する情熱がある。そのため、いいものをつくれば顧客に認められ、必ず売れるというプロダクトアウトの考えが社内に根づいていたのだ。激しく変化する市場で戦っていくには、まず社内の意識を改革する必要があった。
「マーケットインの考え方はまったくなく、それではレッドオーシャンから抜け出せません。プロダクトミックスを考え直す必要性を訴えたのですが、当時はモノクロとカラー両方のコモディティなトナーで圧倒的な売れ筋商品を持っていたため、社内に危機感はほとんどありませんでした。次第に陳腐化するのは間違いないのに、なかなか理解してもらえなかったのです」

数年後、北岡社長の予想は的中する。市場の変化は想像以上の速さで進み、2018年頃から販売量が急減。そして2019年から2期連続で赤字となってしまった。

同氏が副社長に就任したのは、その真っ只中である2020年。自身の手で改革を成し遂げるべく、3カ年の中期経営計画を策定した。その中でプロダクトミックスを大幅に変えることを宣言したが、経営陣から大きな反対はなかったという。
「どうやって同じ目線に立ってもらうか、苦心していましたが、粘り強く改革の必要性を説明したことで、私の考えに共感してくれる幹部や社員が少しずつ増えていたのです。最終的には実際に赤字に陥ったことで危機感が生まれ、全員が同じ方向を向くことができたと思います」

具体的には単価の安いモノクロから高価格帯のカラーへのシフトを強め、なかでも開発の難易度が高く、汎用品ではない特殊トナーの強化を図った。その代表が、独自技術で開発した高性能ハイスピード用低温定着トナーだ。従来、コピー機やプリンターはトナーを高温で定着させる方法が主流で、そこに使用電力の80%以上を消費していた。当時は省電力化を目指したメーカー各社が低温定着トナーを用いた新機種をリリースし始めた頃で、この動きにいち早く対応したのだ。

結果的に2021年には黒字転換し、V字回復を達成。現在では、売上高の約7割をカラーが占めている。

ボトムアップの組織で必ず生き残ると誓う

そして2022年、満を持して北岡社長がトップに就任した。先代は会長に就き、当面は2人体制で経営にあたることになった。
「私は、実務能力はそれなりにあると自負していますが、究極の判断で迷うとき、父の知見や経験、特に失敗経験が活きると考えていました」

ところが、社長を交代してすぐ、先代が病に倒れて経営から離れ、翌年に81歳で他界してしまう。そのため、社長業の実務面における引き継ぎはできなかった。

これまで先代から、直接的に指導を受けるようなこともなかった。しかし、むしろそれが自ら学び、考えること、実践することにつながり、経営者としての教育になったと北岡社長は振り返る。
「父が最後に入院したとき、私は毎日見舞いに行きました。それまでは意見がぶつかることも多かったのですが、病院では非常におだやかな雰囲気の中で、じっくりと話し合えたのです。そこで引き継いだのは、実務よりも精神的なもの。創業の志や事業を継続発展させてきたスピリッツ、父の人生観みたいなものを多く授かりました。父には経営者として、自分なりのミッションやロマンがあり、私もその原点を見誤らないようにしなければと強く感じたものです」

一方で、カリスマ的な創業者がトップダウンで経営していたため、社員の自主性や自律性をもっと向上させたいと北岡社長は語る。
「この数年、現場からボトムアップで提案などが闊達に出てくる組織にすべく、さまざまな取り組みを行っています。全社員が、より当事者意識を持つ組織にしていきたいです」

競争が激化するトナー業界で、「必ず生き残る」ことが第一目標だと同氏は力を込める。新たな時代へ、2代目の挑戦は始まったばかりだ。

 

 

機関誌そだとう218号記事から転載

経営に関するお役立ち資料を
お届けいたします

© Tokyo Small and Medium Business Investment & Consultation Co.,Ltd. All Rights Reserved.