兄弟の強固な絆が描く、70年企業の未来予想図
「将来は熱処理屋さんになりたい」
これは、副社長の真輔氏が小学2年生のときに書いた夢。四半世紀を経て、この夢は兄と二人三脚の形で現実のものとなっている。
熱を加えた鉄を叩いて、鍛冶師が刀をつくるように、加熱と冷却を巧みに調整し、金属の強度や耐久性を自在に操る金属熱処理加工。1951年に創業した多摩冶金株式会社は、親子3代にわたり金属熱処理加工の分野で発展をし続けている。
私たちの身近にあるさまざまな電気や機械部品に、熱処理された金属が用いられているが、同社は特に精密な技術が必要とされる航空機部品の熱処理加工を受託。2009年に航空・宇宙・防衛分野の品質マネジメントシステムであるJIS Q 9100、2012年には航空宇宙産業の国際認証制度であるNadcap認証を取得した。ロケット部品などの製造分野においても信頼のおける企業として評価されている。
多摩冶金取締役会長を務める山田仁氏の父・啓氏が、東京都武蔵野市で「多摩熱処理有限会社」として立ち上げ、1995年に仁氏が2代目に就任。2017年には仁氏の長男の毅氏が社長、次男の真輔氏が副社長となり、3代目の時代に突入した。
工場を遊び場に育った現会長の仁氏だが、自衛隊に興味を抱いて海上自衛隊に入隊。それでも「いつかは多摩冶金の社長になるのだ」と思い続けていたという。そんな息子の気持ちを知ってか知らずか、父の啓氏は「自衛隊を辞めろ」とは一度も言わなかった。それどころか、息子は会社を継がない前提で、社員の中で経営を担える人材を育成し始めていたのだ。その矢先、啓氏が体調を崩してしまった。自衛隊での仕事が楽しく、除隊のタイミングを失っていた仁氏は「今がそのときだ」と、多摩冶金へ入社。38歳のときだった。
一からの技術習得と航空機部品への参入
目指すは「世界最高の熱処理
ブランド TAMAYAKIN」。
もちろん、それまでまったく多摩冶金の仕事をしてこなかった仁氏は、一から技術を勉強し、加えて経営についても学んでいった。
「熱処理加工も経営もド素人ですから、とにかく父と母が必死にやってきた会社をしっかり引き継ぐことに力を注ごうという気持ちが強かったですね。だから、自分の色を出すとか新しいことに挑戦するということは、考えませんでした」
そんな仁氏だが、一つだけやりたいことがあった。それは、航空機部品の熱処理加工だ。海上自衛隊でパイロットをしていた仁氏ならではの目の付けどころだった。ちなみに、現社長の毅氏の子どもの頃の夢は、パイロット。なりたい姿は異なるが、長男も次男も、働く父親の背中に憧れを抱いていたことがよくわかる。
航空機の部品は、それまで請け負っていた機械や電気の部品とは、一枚も二枚も上手の技術を要するものだ。やすやすと参入できる分野ではないが、社長就任前から地道に準備を開始し、自衛隊時代のつながりを活かして、航空機を製造する企業を紹介してもらったり、航空機の分野を手がけていた当時の取引会社に教えを請うたりして、細かな規格が書かれた分厚い品質保証書で、製造の基本を学ぶことから始めた。
2023年には新工場が稼働を開始する。
そして、1988年、航空機エンジン部品の熱処理認定を取得。なんとか小さな部品1つの受注にこぎ着けた。10年後には、航空機用アルミ部品の熱処理を開始。息子の毅氏が入社した後には、既述のNadcap認証や、航空機エンジンの世界三大メーカーの1つ、ロールスロイス社の熱処理工程確認なども取得した。
父親がまいた種を、息子が水をやってすくすくと育て、今では多摩冶金を牽引する主力分野となっている。
2003年に中国の大連に子会社「多摩冶金(大連)有限公司」を設立。
本社工場にはなかった量産向けの熱処理ラインも設置した。
魅力を感じて選んだ経営者としての道
50代の頃には、「65歳で社長を引退しよう」と考えていた仁氏。その背景には「会社を今より発展させるためには、早く若い人に引き継いで、自分とは違うやり方で経営をしてもらったほうがいいはず」との考えがあった。そして、「命がけで会社を守ろうと思える人物は、第三者ではなく家族だろう」と、その役割は当然2人の息子のうちのどちらかが担うと信じて疑わなかったそうだ。
でも、息子たちに「会社を継いでくれ」と話したことは一度もなく、息子たちも父の気持ちを知ることはない。長男の毅氏は乳業メーカーへ。かつて「熱処理屋さんになりたい」と夢を書いた次男の真輔氏も、商社へ就職。しばらく同社に入る気配はなかったという。
しかしある日、仁氏のもとに乳業メーカーの中国事業所に赴任していた毅氏から突然、電話がかかってきた。そこで初めて毅氏は「多摩冶金に入社させてほしい」と父に話したのだった。
取締役会長 山田仁氏
父の会社を継ごうと考えたのは、大企業で働きながら自身の仕事に対する価値観や、やりがいを再認識したからだと毅氏は語る。
「大企業の経理や労務を担当し、ボリュームが多い割には範囲の狭い仕事をしていて、正直、仕事がおもしろいとは思えませんでした。しかし、その後に赴任した中国の事業所は小規模で、いろいろなことを幅広く担うことができ、充実感を覚えたのです。中小企業ってこんな感じなのだな、こっちのほうが自分には向いているなと。そのとき、中小企業といえば、父の会社もそうじゃないかと、ふと思い至りました」
家業だからというよりも、自分に合うか合わないか。それが入社の決め手となり、毅氏は3代目になるべく多摩冶金での日々をスタートさせた。畑違いの業界から来た毅氏を早く育て上げたい。仁氏にはそんな想いがあった。
「会社の技術のことは、誰よりも社長が一番知っているくらいにならないといけないでしょう」
現場に配属し、新入社員と同じように一から技術を身につけさせた。
「経験を積み、私が思い描いたレベルまで知識を蓄えてくれました」と、仁氏は息子の努力に目を細める。
副社長の真輔氏も、多摩冶金への入社動機は兄と同じく、自身の興味が「経営」へと向いたからだった。大学卒業後、一般企業へ就職し、その後にビジネススクールで経営を学んだ真輔氏。仲間とともに起業を経験して今後のキャリアを考えたとき、「経営者として生きよう」という決意が固まったという。
「自分には、祖父の代から受け継いでいる多摩冶金がある。これは巡り合わせなのではないかと思いました」
ちょうど、毅氏も経営の知識が豊富な弟に、力を貸してほしいと思っていたといい、毅氏の入社からおよそ10年後、2人の後継者がようやく顔を揃えた。
創業100周年を見据え存在価値を高めたい
兄弟で温泉合宿に出かけ、将来の多摩
冶金の姿を具現化すべく生み出した
「我等の樹」。イラストは社員が手がけた。
「兄弟で会社を継いでうまくいかないケースをよく耳にしますが、彼らのことは心配していません」と仁氏は微笑む。社長と副社長、すなわち長男と次男は、性格も得意なこともまったく違う。だからこそ、それが互いを補完し合う、いいバランスになっている。
経営において、毅氏は技術や営業に関する分野を、真輔氏は採用や人事など組織運営の分野を担当。役割分担は特に話し合って決めたわけではないが、それぞれの特性を活かし、相手を尊重して自然と出来上がってきたものだという。現在は2本柱として対等な関係で会社経営に尽力している。性格は似ていない正反対の2人だが、「会社に対して抱いている想いや夢は共通している」と口を揃える。
「私の願いは、日本や世界における多摩冶金の存在価値を高めること。末永くお客様に喜ばれ、社員に誇りを持って働いてもらえる会社にしたい」と語る毅氏と、「創業100周年を見据えて、あるべき姿をしっかりと打ち出し、変化の激しい時代を生き抜く会社にしたい」と話す真輔氏。どちらも、中長期的な視点で多摩冶金の未来を見据えている。
現在2人が注力しているのは、今年稼働を開始する、最新鋭設備を擁する新工場を軌道に乗せるための事業計画の推進と、会社のブランディングだ。前者は東京中小企業投資育成がサポートし、国の補助金や税制優遇を受けることに成功。本社工場の近くで土地を見つけ、建設にこぎつけた。後者は、経営ビジョンの明文化、ホームページの刷新、新卒採用のスタートなど、より魅力的な組織をつくり、会社を長く繁栄させるための施策として打ち出している。
代表取締役社長 山田毅氏(左)と
代表取締役副社長 山田真輔氏(右)。
どんな会社にしていくのか、そしてビジョンをどう発信していくか。それを曖昧にしたままではいけないと、兄弟2人きりで方向性をすり合わせる合宿を行い、じっくり語り合った。そうして生まれたのが、「我等の樹」というコンセプト。会社を1本の木に見立て、10年後、20年後、30年後に豊かな果実が実ることを表したもので、新工場の入り口にも樹木の絵が大きく描かれている。
「100年という目標を掲げて、本気で会社のことを考える経営者が2人もいるのは、とても心強い。1人では叶えられなかった大きな夢を、成し遂げてほしい。私は横から口を挟まず、見守っていますよ」とうれしそうに語る仁氏。
多摩冶金は今、時代の流れとともに大きな過渡期に差し掛かり、変革のときを迎えようとしている。その原動力は、2人の若き経営者の想い。その情熱と未来を見据える冷静な視点が、金属熱処理加工と同じように、会社を強くしていくに違いない。
- 主な事業内容:
- 航空機、機械、電気、電気部品等の金属熱処理加工
- 本社所在地:
- 東京都武蔵村山市
- 創業:
- 1951年
- 従業員数:
- 130人
機関誌そだとう213号記事から転載